物語

棚町弘一郎がたなまち農園を創業するまで、そしてたなまち農園がこれから目指していきたい世界について、まとめています。

ぜひご一読ください。

後ろめたくない、堂々と生きる人生の模索

これが、私が地元福岡に戻り、農業をするに至った原動力です。

私は、小さい頃から生き物が好きでした。しかし、子どもながらに、「地球で、人はわがままに生きているのではないか」と感じていました。

幼少期からそのような疑問を持ち続け「将来は地球の環境問題に取り組む人になりたい」と思い、九州大学農学部に進学します。

しかし、最初のオリエンテーションで言われたのは

「人類の営み(農耕)は自然破壊が前提」

ということでした。

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希望を失った私でしたが、在学中に多くの生産者と関わる機会があり、そのときのご縁で有機農業と出会いました。

「自然破壊が前提と言われる農業で、自然と折り合いをつけられる形があるのかもしれない。もっと人を愛せるかもしれない」有機農業との出会いは、私にとって希望の光になりました。

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流通の世界を知る

大学卒業後は、有機農業への関心から、株式会社大地を守る会(現オイシックス・ラ・大地株式会社)に入社し、全国物流の世界を学びます。

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そこには、全国の生産者と繋がり、産地ごとの旬をリレーしていきながら、年間を通じて旬の野菜を提供する仕組みがありました。それは、南北に長い日本列島をまたぐ流通サービスとしてとても素晴らしいもので、全国の人が手軽に有機野菜を手に入れられるようになりました。

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一方で、福岡の人が福岡の野菜を食べるときにも、その野菜は関東の物流センターまで運ばれ、運送会社によって福岡まで戻ってきます。

私にとっては、これがどうしても「もったいない」と感じてしまいました。

「地元の人が地元の野菜を新鮮なうちに食べられるようにしたい」という思いから、福岡に戻り、自ら農業をすることを決意します。

“流域”との出会い

退職後、埼玉県の霜里農場で1年間の住み込み研修、そして福岡県のむすび庵で1年間の農業研修をしました。

霜里農場での研修中、「大地の再生」で知られる、環境再生医・造園技師の矢野智徳さんとのご縁をいただきました。

私は、そこではじめて、“流域”という言葉を知りました。

この”流域”という言葉を使うと、今までぼんやりとしていた、あらゆることがストンと落ち、整理されていったのです。

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